季節の変わり目、人生

    今年は(も?)暑い。10月ってこんな暑かったっけ。暦の上では秋のはずだが。

    秋が1番好きだ。暑いのも寒いのもニガテだし、春は花粉症で嗅覚と視覚が終わりになってしまうので、秋が1番過ごしやすい。空も高くて思わず見上げてしまう。ああ、秋風も気持ちいい。まだ残暑に少し悩まされる中、少し乾いた風が体温を奪うようにフッと吹き抜ける感覚は、1年365日のうちに何日味わうことができるだろう。まだまだ暑いこの頃でも、風を気持ちよく感じることが何度かあった。

 

    しかし、今年の秋風にはなんだか心地よいだけではない、灰色を帯びたような気持ちにさせる、そんな表情があった。なぜそう思ったのかはよくわからない。近所の交差点で信号待ちをしていた時に、秋の温度を抱えた向かい風が吹いた。風が背後に抜けていくとき、わたしは思わず振り返って、風の行く先を見つめていた。目を細め、遠くをただぼんやりと。何かを失くしてしまったような、一抹の寂寥感を覚えながら、前を向き直し信号を渡り、帰宅した。

    9月も下旬にさしかかった頃だったと記憶しているが、この時のことは妙に覚えていた。

    今思えば、暗示だったのかもしれない。

 

    昨夜、犬が亡くなった。

    おばあちゃん家で飼っていた女の子だった。おばあちゃん家と言っても、今住んでいる家と隣同士なので、よく遊びに行ったりしている。

    16年半、たくさん遊んだ。おばあちゃん家にやってきた当初は、わたしの姿を見ると全速力で駆けてきて、お腹やアゴめがけて突進してくるような元気っ娘だった。激突を食らわせた後は、寝転がって「さすれ」と言わんばかりにお腹を見せてくるので、言う通りにたくさんさすってやった。

    なぜかしっぽを触っても嫌がらないところが好きだった。食べられないくせにチーズが好物で、会話の中で「チーズ」という単語が出るたびに「ほしい!」とぎゃんぎゃん吠える、そういうちょっとアホなところも好きだった。

 

    数年前、乳がんを患った。何度か手術をして回復したが、ここ最近は体力の衰えが早まっていた。なかなか起き上がらなくなり、呼吸が乱れることも多かった。診断では、肺全体にがんが転移していたらしい。きっとずっと苦しかっただろう。最期の日も、絞りだすように息を吐いていた。

 

    動物の死というのは、不思議だなと思わされる。ここ最近は私も含めて家族の誰かが家に帰らない日が多い中、昨日だけは家族みんなが集まることが叶った。みんなが集まるのを待っていてくれたのかな、なんて、そんなわけないとも言い切れない、むしろそう思わせるだけの説得力のある旅立ちだった。

 

    母は明るく泣いていた。脚が悪くもう愛犬の散歩をするには厳しくなった祖父母に代わり、ここしばらく散歩の面倒を見ていたのは母だ。

    妹は涙を堪えていた。が、すぐに溢れてしまう。この子が亡くなる前にもおばあちゃん家では大きな犬を飼っていた。幼い妹は大きな動物がまだ苦手でよく泣いていた。そんな妹も、いつのまにかこの子を抱きしめられるような動物好きになったんだと感心したのを覚えている。

    父は言葉に詰まっていた。仕事が忙しく、会う機会こそ他の家族より少なかったが、この子は父の匂いが好きだった。

    祖父母は笑ったり泣いたり。いっぱい遊んでくれてありがとうと繰り返しわたしたちに言ってくれた。

    わたしはあまり泣けなかった。ゆっくり休めるようになって良かったねと、思い出を振り返りながらこの子のまだ温かい身体を撫でていた。

 

     みんな、この小さな亡骸を前にどういう想いを抱えていたのだろう。同じ部屋にいながらも、目に映る反応だけでさまざまだ。胸の内など考えるまでもなくもっと複雑だろう。

    わたしとてワンワン泣き叫びたい気持ちもあれば静かに受け止めたい気持ちもあれば、気の利いた一言でも発してみようか、何も言わない方がいいだろうかと逡巡するもどかしい気持ちもあった。

 

    死の前において、感情が一つに定まることはないのだなと実感した。でも、死の前では、時に矛盾しながらも共存する感情ひとつひとつが正しく、自然なものであることも、昨夜のあの部屋は示していた。

 

    わたしにとって身近な訃報は約15年ぶりだった。ここ最近は友人の結婚や出産という形の人生の転機に立ち会うことが多かったが、これからは別れに悲しむことも増えてくるだろう。その時、どんな感情を抱えることになるかはまだわからないけれど、自然な感情はどんな時でも忘れないでいたい。そしてなるべくそれを丁寧に噛み締められるように心がけたい。