2022 ブログ初め

    あけましておめでとうございます。

    2021年の振り返り記事でも書こうか〜と考えていたけれど、なんだかんだで書く時間無かったです。たくさん推しとオタク友達に会えて楽しかったです。(2021年総括終わり)

 

    2022年は、推し活はまあ今まで通りのスタンスでやっていくつもりなので特に表明することは無いんですが、【継続すること】を個人的な目標にします。やることは以下の2つ。

    ①ストレッチ

    ②クラシック音楽を1日1曲

 

    当面はこの2つを毎日続けていこうと思います。

    ①については、シンプルに身体が固すぎるのでなんとかしたいなと思うのと、楽器(クラリネット)歴15年目にして、ようやく楽器を吹くには筋肉が必要ということを実感し、身体を思ったように使えるように整えていかねばと思った次第です。筋トレとかは必要だと思ったらやります(そのためには楽器を吹く時の自分の身体を丁寧に観察しなければいけませんが…)。あくまでも音作りのための行為であって、はじめから筋トレが目的になってしまうといけないので、この辺からぼちぼちやっていきます。

    ②について。吹奏楽やらオーケストラやら室内楽とかやってるクセに、自分の関わるジャンルの曲をほぼ知らないんですよね。。いや、曲名くらい知ってはいるけどというレベルで、どういう曲なのかはあんまり知らないことが多くて、いつも楽譜をもらってから曲の勉強をしたり、演奏会に行ってどんな曲か初めて知ることがほとんどでした。オケマンの誰でも知ってるようなベートーヴェン交響曲でもよく知らない曲あるし(さすがにどれも1度は聴いたことあるけど)、そういう状況がずっと嫌だな〜と思っていたので、今年からは毎日1曲でいいから、知ってる曲を増やしていこうと思いました。

    今のところ、1日はブラームスのピアノ協奏曲第1番、2日は同じくブラームスピアノ協奏曲第2番を聴きました。はじめからやれよという感じですが、聴くだけでは受け身な状態になって、1年後もきっとあまり変わってないだろうという予感が既にしているので、ノートに雑なメモでもいいから所感を記していくことにしようと思います。明日はノートを買ってこよう。ついでに妹から買い物頼まれてたからそれも買ってきます。

 

    継続は力なり。去年1年、まわりの人を見ていて強く感じました。今年の終わりには、大したことじゃなくても何かやってみようと思わせてくれた方にお礼を言えるように、今年1年、頑張ってみようと思います。

反省文

    またひとつ、曲が私の手を離れた。いや、もうかなり前から離れていたような気もするが、事実として離れた。

 

    疲労を抱えた状態で、甘味を食し、流れるように閉園前の寺院に駆け込んだ。眺めだけで癒しを得る体験は稀だった。「文化って大事やな」などと何もわかってないテキトーな上辺だけの会話で盛り上がったあと友人と別れ、地元の大して美味くはないラーメン屋でその美味しくなさを確認した。でもこれが味わいたかったので満足して帰宅した。

 

    曲をもっと自分の身体に馴染ませることができたら、音を自分の身体のように操ることができたら、今日みたいな演奏はしないで済むようになるのだろうか。いつまでも他人のせいにして自分に厳しくしない。そんな奴から出力される音を誰が聴きたいだろうか。音づくりをするには生き方を再構築しなければ。

 

    褒められるのがすごく苦手だ。今日ははじめましての人がたくさん褒めてくれた。ありがたいとは思う。ただ、自己満足すらできていないものを褒められるのに納得がいかない。なんて社会性の無い奴だ。謙虚で礼節を欠かない推しだったらこんな時はなんて言うんだろう。

 

    またすぐ向き合わないといけない楽譜がある。こんな情けない文を書くのはそろそろやめにしたい。

相関

    仕事が上手く進んでる時はオタ活も順調に進むし、逆も然り。

    今は忙しさ自体は前と変わらないんだけど、社内情勢的になんだか追い詰められているので(個人的というよりは部署レベルで)、気分がせせこましくなっていて、あまり元気いっぱいとはいい難い。

 

    気づけば10月も終わり、オタクにとっての節目である11月が始まる。進研ゼミの漫画に出てくるような、両立できる人を羨ましく思う気持ちを久しぶりに感じた。残念ながら仕事に「この仕事、進研ゼミでやったやつだ!」は存在しないのだが。

季節の変わり目、人生

    今年は(も?)暑い。10月ってこんな暑かったっけ。暦の上では秋のはずだが。

    秋が1番好きだ。暑いのも寒いのもニガテだし、春は花粉症で嗅覚と視覚が終わりになってしまうので、秋が1番過ごしやすい。空も高くて思わず見上げてしまう。ああ、秋風も気持ちいい。まだ残暑に少し悩まされる中、少し乾いた風が体温を奪うようにフッと吹き抜ける感覚は、1年365日のうちに何日味わうことができるだろう。まだまだ暑いこの頃でも、風を気持ちよく感じることが何度かあった。

 

    しかし、今年の秋風にはなんだか心地よいだけではない、灰色を帯びたような気持ちにさせる、そんな表情があった。なぜそう思ったのかはよくわからない。近所の交差点で信号待ちをしていた時に、秋の温度を抱えた向かい風が吹いた。風が背後に抜けていくとき、わたしは思わず振り返って、風の行く先を見つめていた。目を細め、遠くをただぼんやりと。何かを失くしてしまったような、一抹の寂寥感を覚えながら、前を向き直し信号を渡り、帰宅した。

    9月も下旬にさしかかった頃だったと記憶しているが、この時のことは妙に覚えていた。

    今思えば、暗示だったのかもしれない。

 

    昨夜、犬が亡くなった。

    おばあちゃん家で飼っていた女の子だった。おばあちゃん家と言っても、今住んでいる家と隣同士なので、よく遊びに行ったりしている。

    16年半、たくさん遊んだ。おばあちゃん家にやってきた当初は、わたしの姿を見ると全速力で駆けてきて、お腹やアゴめがけて突進してくるような元気っ娘だった。激突を食らわせた後は、寝転がって「さすれ」と言わんばかりにお腹を見せてくるので、言う通りにたくさんさすってやった。

    なぜかしっぽを触っても嫌がらないところが好きだった。食べられないくせにチーズが好物で、会話の中で「チーズ」という単語が出るたびに「ほしい!」とぎゃんぎゃん吠える、そういうちょっとアホなところも好きだった。

 

    数年前、乳がんを患った。何度か手術をして回復したが、ここ最近は体力の衰えが早まっていた。なかなか起き上がらなくなり、呼吸が乱れることも多かった。診断では、肺全体にがんが転移していたらしい。きっとずっと苦しかっただろう。最期の日も、絞りだすように息を吐いていた。

 

    動物の死というのは、不思議だなと思わされる。ここ最近は私も含めて家族の誰かが家に帰らない日が多い中、昨日だけは家族みんなが集まることが叶った。みんなが集まるのを待っていてくれたのかな、なんて、そんなわけないとも言い切れない、むしろそう思わせるだけの説得力のある旅立ちだった。

 

    母は明るく泣いていた。脚が悪くもう愛犬の散歩をするには厳しくなった祖父母に代わり、ここしばらく散歩の面倒を見ていたのは母だ。

    妹は涙を堪えていた。が、すぐに溢れてしまう。この子が亡くなる前にもおばあちゃん家では大きな犬を飼っていた。幼い妹は大きな動物がまだ苦手でよく泣いていた。そんな妹も、いつのまにかこの子を抱きしめられるような動物好きになったんだと感心したのを覚えている。

    父は言葉に詰まっていた。仕事が忙しく、会う機会こそ他の家族より少なかったが、この子は父の匂いが好きだった。

    祖父母は笑ったり泣いたり。いっぱい遊んでくれてありがとうと繰り返しわたしたちに言ってくれた。

    わたしはあまり泣けなかった。ゆっくり休めるようになって良かったねと、思い出を振り返りながらこの子のまだ温かい身体を撫でていた。

 

     みんな、この小さな亡骸を前にどういう想いを抱えていたのだろう。同じ部屋にいながらも、目に映る反応だけでさまざまだ。胸の内など考えるまでもなくもっと複雑だろう。

    わたしとてワンワン泣き叫びたい気持ちもあれば静かに受け止めたい気持ちもあれば、気の利いた一言でも発してみようか、何も言わない方がいいだろうかと逡巡するもどかしい気持ちもあった。

 

    死の前において、感情が一つに定まることはないのだなと実感した。でも、死の前では、時に矛盾しながらも共存する感情ひとつひとつが正しく、自然なものであることも、昨夜のあの部屋は示していた。

 

    わたしにとって身近な訃報は約15年ぶりだった。ここ最近は友人の結婚や出産という形の人生の転機に立ち会うことが多かったが、これからは別れに悲しむことも増えてくるだろう。その時、どんな感情を抱えることになるかはまだわからないけれど、自然な感情はどんな時でも忘れないでいたい。そしてなるべくそれを丁寧に噛み締められるように心がけたい。

暇つぶし

    思いがけず時間が空いてしまった。

    暇つぶしにと思って買い物に寄ってみたが、早々に目当てのものが見つかり、手持ち無沙汰になってしまった。(手持ちの荷物は増えた)

    こんな時に本でも持っていれば、あるいは土曜日の百貨店を楽しむ気力と体力があれば、なんて考えながら大阪の一角の休憩スペースでぐったりと携帯の画面を眺めている。早く帰りた〜い。何もしたくな〜い。

 

    基本的にやりたいことというものがない。

    仕事もどうしてもしないといけないこと以外やる気は無いし、食事も美味しいものにはもちろん惹かれるけど食べられて味がすれば(自分としては)OKみたいな価値観だし、暇だから絵を描いてみようというのは5年に1回思うかどうかレベル。恋人がいたら楽しいだろうとは思うけど、恋人と一緒にやりたいことが思いつかないので、それは相手に失礼だし自分といる時間がもったいないだろうということになり、振り出しに戻る。

    いつからこんな無気力な感じになったのか。これは別に考えるまでもなく生まれつきだ。つまらない人間だなあ。

    歳を重ねるたびに自分のことがたまらなくつまらない人間に思えて仕方がない。まわりのみんなはその間に何かしらを身につけて人生を進めている。学力、教養、スキル、恋人、配偶者…

 

    先日、友人の結婚式に参加した。イマドキの結婚式は新郎新婦の思い出やヒストリーを振り返るムービーが流れるスタイルが一般的らしい。ムービーを見るに、みんな素敵な出会いに恵まれていて(自分もその中の一部で紹介してもらえたことはとても嬉しかった)、これからも幸せな日々を送ってほしいと素直に祝福を送ることのできるイベントはとても良いなと思った。もうみんな毎日結婚式してほしい(月に90万円のご祝儀を用意できる力がどこにある?)。

 

    自分の人生を振り返るとどんなムービーができるんだろう。ヘタに具体的に考えると不必要なダメージを受けかねない。次の予定の時間も近づいてきたのでこの辺で終わりにします。

積み重ねの先に

    なんでもできる人を羨ましがる。

    自分にはできないことをひょいのやってのけてしまう人に憧れる。

    憧れや羨望は自分には無いものを求める感情だ。人の背中を追う形の憧れだけでなく、物事に取り組んでいるうちに自分の中での理想が形成されることもあるが、単に「ああなりたい」と思うのは簡単で、では抱いた理想に近づけるように行動できる人はどれほどいるだろうか。

 

    前々から思っているが、「ああなりたい」「こういうことがしたい」と口に出すのは、自分の目標を成し遂げるための具体的な術を持っていないことの裏返しであることが多い。

    なぜなら、具体的な策を持っている人であれば行動で示すことができるから。目標に対して自分に要求されていることを把握して適切に行動することで、壁を乗り越えていくものだ。(「ライブや舞台に行きたい」という欲求については、抽選という自分ではどうしようもない要素があるのでその限りではないかもしれない。ライブ、舞台、行きたいなあ。)

 

    目標を叶えるには、策も必要だが、能力ももちろん必須だ。知識や技能は一朝一夕では身につくものではない。日進月歩、継続は力なり、である。

    ここまでは頭で理解しているつもりでも、毎日のように継続できていることは、今の自分には無いなと感じる。不器用で取り柄の無い自分にとっては、泥臭く少しずつでも毎日取り組むことしか力をつける方法はないのに、気分屋な性格なので毎日取り組むモチベーションが無く、すべて中途半端になっていつのまにか興味が薄れてしまうことがあまりにも多い。

 

    毎日継続というのは、本当に難しい。

    自分が何か毎日取り組んでいたことをあげるとするなら大学時代に楽器を吹いていたことだけど、あれだけ毎日楽器を触っていたのに、今振り返ればあまり得られたものは大きくないように思ってしまう。自分に今何が見えているか自省することがなかったんだろう。モチベーションが無い日でも基礎感覚を常につけておくためにルーティンは重要なんだなと今になって思う。

    別にもう手遅れというわけではないけれど、簡単なことでも何か毎日続けるというのは、今やれば必ず何か見えるものがあるのだという予感がある。

 

    きっとみんなそうやって積み重ねてきたから、自分のような何も積み重ねていない人間に軽く羨ましがられたりするのだろう。人の努力や想いに気づけるようになるにはまずは自分自身が積み重ねられる人間にならないといけない。羨ましがるだけではなく敬意を表することのできる人間になれたらいいなと思う。

    あと1ヶ月ほどでまたひとつ歳を重ねることになる。それまでにこれから継続してやることを何か考えておこうかな。

夜更かし

    たまには文脈の無い雑文もありかと思いブログを開く。書くことを生き甲斐にしてるわけではないが、たまにこうして書かないと脳が鈍りそうな感覚を覚えたので。ちょうどGWに入り夜更かしも許されるので、深夜に思いついたことをただ並べていく。

    人に読ませる気が無いので、読んでくださった方には申し訳ないですが、確実に何言ってるかわからないと思います。すみません。

 

 

    他人のことを理解しようとするときには必ず自分のフィルターがかかっている。ここに無自覚だと、他人を理解するところから1番遠ざかる上に人を見る目が無いと思われてしまう。

 

    必然性を求めすぎているのかもしれない。論理が一貫してないことに違和感を覚えてもそこに憤慨する資格があるほど自分は隙の無い人間ではない。適当になる時はある。タイミングの問題だ。「やる時はやる奴」であってくれたらそれで良い。スイッチの在処と扱い方がわかる人がどれほどいるかという話ではあるが。

 

    「教え上手」はたしかに存在するし求められる能力だが、「教えられ上手」という能力もまたたしかに存在するように思う。かつての先生は「学び方を知りなさい」と助言をくれた。「教えてください」の言葉だけで人から何かを教えてもらえると思ったら大間違い。

    人から学ぶということは人の技術を盗むこと、人の引き出しを開ける行為である。無作為にガサゴソと開けてはセキュリティも厳しくなるだろう。

    同様に、目標としていることを指して「〇〇してください」の言葉だけで人はそう簡単に動かない。人が自然と自分の思っているように動くよう掌上で操ることで目標を達成していくものだ。『北風と太陽』の太陽のような賢さを持ちたい。まだまだ自分が北風の側にいる自覚も忘れずに。

 

    自分を何かしらの属性に入れ込みたがる人は多いが、主義に生きている人は今の時代そう多くないと思う。出る杭になりたくないのかもしれない。背反する属性を持つことはもう変だとすら思わない。であるから、属性が行動の動機になる人はちょっと理解し難いなと思う。もう少し発想の起点を小さなところに置いた方がいい。

 

     自分が快く思うポイントというのは人に共感してもらえないことが多いけれど、人は何を良いと思い、何に快感を覚えるのか、その理由はなにか。根底の部分について冷静に語りあう場が溢れていた学生時代が懐かしい。

    振り返っているばかりだなと思う。将来のことを考えるとすごく暗い気持ちに襲われる。先は長いのに何もやりたいことが無いまま生きていくことが恐ろしいからなのか。とにかく、未来を生きる自分の姿が想像できない。今を生きるのに必死でもないくせに大仰なことを言うの恥ずかしいからやめた方がいいね。

 

    眠くなってきたので、寝ます。