夜更かし

    たまには文脈の無い雑文もありかと思いブログを開く。書くことを生き甲斐にしてるわけではないが、たまにこうして書かないと脳が鈍りそうな感覚を覚えたので。ちょうどGWに入り夜更かしも許されるので、深夜に思いついたことをただ並べていく。

    人に読ませる気が無いので、読んでくださった方には申し訳ないですが、確実に何言ってるかわからないと思います。すみません。

 

 

    他人のことを理解しようとするときには必ず自分のフィルターがかかっている。ここに無自覚だと、他人を理解するところから1番遠ざかる上に人を見る目が無いと思われてしまう。

 

    必然性を求めすぎているのかもしれない。論理が一貫してないことに違和感を覚えてもそこに憤慨する資格があるほど自分は隙の無い人間ではない。適当になる時はある。タイミングの問題だ。「やる時はやる奴」であってくれたらそれで良い。スイッチの在処と扱い方がわかる人がどれほどいるかという話ではあるが。

 

    「教え上手」はたしかに存在するし求められる能力だが、「教えられ上手」という能力もまたたしかに存在するように思う。かつての先生は「学び方を知りなさい」と助言をくれた。「教えてください」の言葉だけで人から何かを教えてもらえると思ったら大間違い。

    人から学ぶということは人の技術を盗むこと、人の引き出しを開ける行為である。無作為にガサゴソと開けてはセキュリティも厳しくなるだろう。

    同様に、目標としていることを指して「〇〇してください」の言葉だけで人はそう簡単に動かない。人が自然と自分の思っているように動くよう掌上で操ることで目標を達成していくものだ。『北風と太陽』の太陽のような賢さを持ちたい。まだまだ自分が北風の側にいる自覚も忘れずに。

 

    自分を何かしらの属性に入れ込みたがる人は多いが、主義に生きている人は今の時代そう多くないと思う。出る杭になりたくないのかもしれない。背反する属性を持つことはもう変だとすら思わない。であるから、属性が行動の動機になる人はちょっと理解し難いなと思う。もう少し発想の起点を小さなところに置いた方がいい。

 

     自分が快く思うポイントというのは人に共感してもらえないことが多いけれど、人は何を良いと思い、何に快感を覚えるのか、その理由はなにか。根底の部分について冷静に語りあう場が溢れていた学生時代が懐かしい。

    振り返っているばかりだなと思う。将来のことを考えるとすごく暗い気持ちに襲われる。先は長いのに何もやりたいことが無いまま生きていくことが恐ろしいからなのか。とにかく、未来を生きる自分の姿が想像できない。今を生きるのに必死でもないくせに大仰なことを言うの恥ずかしいからやめた方がいいね。

 

    眠くなってきたので、寝ます。