『よるのあと』

2019. 11. 27 wed.

今日、『adieu 1』が発売された。

アルバムの発売に先駆けて、収録曲のダイジェスト音源がYouTubeで解禁になった。2日前のことだ。

明日にはフラゲができるというのに、やはり新曲には期待が高まる。通知が来た次の瞬間にはYouTubeを開いていた。

 

バラードのようなしっとりした、優しい感じの曲が好きなので、『よるのあと』の曲調はすぐに好きになった。早くこの曲の全貌が知りたくなった。

公開された1番のサビの抜粋。

 

あなたが嘘をつかなくても
生きていけますようにと
何回も何千回も 願っている
さよなら

 

ああ、また失恋の曲を好きになった。

どういうわけか、昔から失恋や別れを歌った曲ばかりとても好きになる。人間性に問題があるのかもしれない。

とにかく、どんな物語なのか、早く触れたくて昨日は早く帰ってCDを聴くことしか頭になかった。

 

何回聴いただろう。

1曲目から通しで5回ほど聴いたあと、ずっと気になっていた『よるのあと』だけを3時間ほど繰り返し聴いていた。

でもそれは、曲が良かったからという理由だけではなかった。メロディもオーケストレーションもadieuの歌声もとても好きだ。でも、どういうわけか曲に入り込めない。何を言ってるのかまったくわからなかったのだ。

 

もともと、歌詞は歌詞だけに集中しないと聞き取りが出来ないタイプの人間だ。どうしても伴奏のリズムや和声ばっかりに気を取られてしまう。だから、歌詞カードを見た。わからない。何回読んでも言っている意味がわからない。

 

たとえば、1番のAメロ。

 

目に見える 細胞だけ
夜に響いた 鳴き声だけ
透明な バランスだけ
あなたにとって都合がいい

 

なに??ぜんぜんわからん。抜粋してるから文脈は読み取れないでしょ、とはいっても流石にわかりにくすぎるし、1番からこうとあっては困ってしまう。

大体冒頭の「嘘」ってなんだ。わからない言葉が次の疑問を生む。こんな調子で昨日は2時間ほど歌詞カードとにらめっこしながら1日が終わってしまった。

 

わからないときは手を動かせるだけ動かして無理やり考える。もう記憶の彼方、受験時代に編み出した方法論だが、それを実行することにした。

 

というわけで、

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歌詞を書き出して、思いつくことをメモのように書き並べていった。

 

そこで、大前提となるところで思い違いをしていたことに気づいた。

この曲で印象的なフレーズといえば、やはり先にも引用した冒頭のフレーズだろう。曲中に全部で4回出てくる。

次に繰り返し出てくるのが、1番2番ともにBメロで使われている、

 

青い体温 震えぬ胸

 

というフレーズ。

なぜこのことに気づくのに半日を要したのか、自分の想像力の低さを嘆いてしまったが、もう「あなた」は死んでいるのでは。そう読み取れた瞬間にバラバラに散らばっていたパズルのピースがはまり始めた。

 

導入がかなり長くなってしまいました。だらだらと喋りすぎるのは私の良くないクセです。今日も上司にツッコまれたところなのに。

以下に、今の時点の私が解釈したことを主人公になったつもりで書いてみました。歌詞と照らし合わせながら読んでいただければと思います。

解釈が作詞家の意図と合ってる気はまったくしないので、違うだろ〜って思った方はぜひアイデアを教えてください。

 

 

 

大好きな「あなた」はわたしと仲良くしてくれていた。けれども、まだ付き合ってはいない。友達以上恋人未満というポジションがしっくりくる。

いつもふざけたように「好き」とか「愛してる」とか「幸せにするよ」とか口癖のように言ってくる。

そんな調子の良い言葉にはいつもふざけて茶化してしまい、わたしも「愛している」とはとても返せない。本当の気持ちを言えずにいた。

それでも、友達以上恋人未満のラブソングみたいな日々は幸せだった。誰にもこの幸せを知られたくない。付き合ってもないから写真も撮らない。わたしだけが幸せ。

 

「あなた」は突然死んだ。病気だった。

「あなた」は病気のこと、わたしには言わなかったけど、わたしは知っていた。大好きだったから。でもそれを訊ねることはしなかった。大好きだったから。

「愛してる」とか「幸せにする」なんてぜんぶ「嘘」。「あなた」がそんな嘘をつかなくても生きていけたらとずっと願っていたし、死んじゃったけど、これからも願っている。

口癖の愛の言葉を聞くたびにつらかった。幸せなのに、呪いのように重く心にのしかかっていた。

 

でも、もう嘘は必要ない。これからは、目に見えるもの、聞こえるもの、ハッキリした事実だけを見てられる。嘘ばかりだったあなたには都合がいいね。…ってもう死んでしまってるけど。

安らかな顔。そんな簡単な顔で笑わないで

悲しみを癒そうとして、慣れた匂いの「あなた」にもらったルージュをつけてみても、「あなた」を思い出してしまうや。「あなた」の前じゃ役に立たない。

 

もうお別れだ。二度とない一度きりのさよならだから、最後に今まで言えなかった愛を伝えよう。

ストレートに「愛してる」、はもう遅すぎる。

愛してるなんて当然でしょ。

 

お別れにはお別れに相応しい言葉がある。そこに想いをこめよう。

嘘ばっかりだった「あなた」に。

そして、ずっとその嘘を見ないフリしていたわたしの悲しみに。

 

「さよなら」

わかっていたようでわかってなかった

応援

( 名 ) スル

①  他人の手助けをすること。また、その人。 「友人の-を仰ぐ」 「地元候補を-する」

②  (競技・試合などで)歌を歌ったり声をかけたりして味方のチーム・選手を元気づけること。 「母校のチームを-する」 「 -合戦」


(大辞林 第三版より)


私はこのアカウントを、「好きな芸能人を応援する」ものとして作った。

その時に、“そもそも「応援」とは何か”という根本的な問いが頭をかすめることはなかった。


先日、舞台『組曲虐殺』の大阪公演の千穐楽の日、私は大好きな女優さんと、その方のマネージャーさんにお手紙を書いた。

何の気なしに、「これからも応援しています!」という偽りのない気持ちで締めくくったが、後になって、ああは書いたものの、何をすることが応援することになるんだろうと、ふと思った。


今まで私がしてきたことといえば、Twitterで「推しがかわいい」と叫び散らかしているくらいだ。どれだけ自分のことを贔屓目に見ても、冒頭に抜粋した「応援」の定義には引っかからないだろう。


応援とは思っていたよりも難しい。最近になってよくそう感じる。人の手助けになる、人を元気づけるというのは、どうしたらよいものか。


個人的な話になるが、私はアマチュアで音楽をやっている。1〜2ヶ月に1度ほど、室内楽やオーケストラ、吹奏楽などの演奏会の予定を抱えている。演奏会を聴きに来てくれるのは仲の良い友人数名、ということが多いが、いつも本番後には感想のメッセージをくれる。

演奏がよかった、と言ってもらえるのはもちろん嬉しいが、何より嬉しいのは、「また一緒に演奏したいね」「またあなたの演奏が聴きたい」と言ってもらえることである。

元来、前向きな性格でない私は、こうした未来志向の言葉に何度も励まされてきた。


これが、私が「応援」された記憶のひとつだ。


人に影響を与えたということを感じられるのは、舞台に立つ者の特権であり、原動力になるものだと私は思う。

自分がその作品を受けてどう感じた、あるいはどう考え方が変わったか。自分の人生においてその作品がどういう位置づけになったか。


そういうことを発信していくことが応援になるのかなと、確信は持てないままだが、今はそう思っている。

まだまだ人を元気にするような言葉を操れる人間ではないけれど、何が人を喜ばせるのか、あるいは悲しませたり怒らせるのか、人の心の機微にもっと敏感になって、言葉を紡いでいけるようになりたい。「推しがかわいい」はこれからも叫び続けていきながら。

3年A組

「萌歌ちゃんが出るから観るか~」くらいで観始めたんですが、とても面白かったです。

柊先生の毎回のメッセージにも、生徒の成長にもすごく心を揺さぶられました。

特に最終回の演説は、1人の人間の叫びのように思えて、ドラマであることを忘れていました。

ドラマを観て考えたことについて、自分なりに書いてみました。

細かいストーリーなどは書いていません、あらかじめ。

 

ーーーーーー

このドラマで描かれた立て籠もり事件の動機は、柊先生の元恋人の教師や教え子である水泳部員の人生を狂わせた事件にあり、彼女たちを追いつめていたのが、「SNS上の心無い誹謗中傷」、またそれを書き込んだ「ネットの世界の人たち」であることが最終回で明らかになった。

 

現代では、特に若い世代であれば誰もが利用しているSNS

Twitterの炎上動画などが尽きないことが報道されて止まないこうした時代に、「言葉が人を殺す」ということをストレートに伝え、SNSの使い方や言葉の使い方、人との関わり方を考えさせるというドラマが作られたことはとても大きな意味があると思う。

 

教師という設定を上手く使い、毎週「授業」という形で視聴者にメッセージを投げかけてくる脚本の"強さ"を感じた。

正直、脚本のメッセージ性が強すぎて、あれ程に演技力の高いと言われる俳優陣でも、「ドラマ」ではなく悪い意味で「メッセージを伝えるだけの場」のようになってしまっているなと感じたことも何回もある。

しかし、そういったことはあまり問題視されてこなかったように思うし、そのことは、脚本を書かれた武藤さんが何を描きたいのかということにみんなが惹きつけられていた証なのではと思う。

 

上辺だけで物事を見ないで本質を考える、グッと踏みとどまって自分の行動選択に誤りが無いか考える、「Let's think」という決め台詞にもあるように、「考える」ということが大きなテーマになっていた。

何を考えるのかという目的語が語られないことで、その思考の自由度を広げ、視聴者にもハッキリとしたメッセージではなく、色々なことを考えて出した答えが、このドラマから受け取ったメッセージになるという構造になっていた。

最終回のお知らせの時に誰の言葉だったかは忘れてしまった(確か菅田さんだったかな)が、「あとはみなさんのものです。」というようなコメントを書いていた。

本でも結末をハッキリ描かないで、読者の想像に委ねるという手法が使わることがあるが、同じくあのドラマも視聴者の数だけ受け取り方がある。

というわけで、ここから自分の考えたことを書いていきたいと思う。

 

柊先生が立て篭もったこと。

全国民を煽りに煽り、注目をさせることで、あの演説を行う準備が出来た。

何をするにしても「準備」が必要で一番大事なんだということを最近考えていた私にとって、素直にすごいと思えた。

でも、あんな事件じゃなくてもっと日常においても、準備は大事だと思う。

 

「あしたは何しよう」と考えて、着る服や出かける場所、何時に家を出て何を食べよう、買うものはどうしようと色々考えを巡らせて翌日を迎えれば、きっとゆとりのある楽しいステキな1日になるだろうし、逆に何も考えずにいると、朝を迎えて「今日は何をしよう」と考えながら1日を虚無的に過ごしてしまうなんてことも珍しくはないだろう。(私は圧倒的に後者が多いが、今はそれでも構わないなと思っているし、前者がいかに素晴らしいことかは想像くらいはできる。)

 

幸せの形は人によって違う。上記のように、休日を充実した予定で埋め尽くしたい人もいれば、(今の私のように)休日は誰にも会わずゆっくり過ごしたい人もいる。仕事が大好きな人、人と話すのが好きな人、スポーツをするのが好きな人、旅行が好きな人。

色んな人がいて、それぞれがそれぞれの場所で幸せを感じている。(中には何に幸せを感じるかわからない人もいるかもしれないが。)

良い意味で、人は自分とは違う、ということをきちんと認識し、考え方や嗜好が合う人とは仲良くしたらいいし、違う考えを持つ人と出会ったら、その人の話を絶対に否定せず聞いてあげる。これもまだ出会ってない人と出会うまでの「準備」だと思う。

 

「幸せになる」という大きな目標とそのための「準備」。言葉はそのための「方法」のひとつ。

言葉の使い方にしても、「誹謗中傷は良くない」とネガティヴに描かれていたから、視聴者も「SNSでは言葉に気をつけよう」というように捉えてしまう人が少なくないだろうと予想してしまう。

でも、もう一歩考えれば、

「どうやったら言葉で自分や周りの人を楽しませ、幸せにできるのか」

という命題に行き着ける。このことこそ、日常を生きる自分たちが真に考えなければならないことであり、柊先生が伝えたかったことではないのかと思う。

 

これからを生きる自分にとって、当たり前だけど大切なことを考えさせてくれるきっかけになったドラマだった。