“推し”とは

    最近職場で雑談していて、自分の推しのことを話すことがあるんだけど、女優やアイドルのファンであることに驚かれることがある。課長連中からすると、芸能人の追っかけに熱を注いでいるのはどうも変に映るんだろう。

    一応フォローしておくと、推しを持つこと自体に否定的な感じではなさそうである。自分の推しについて「俺は好きじゃないなぁ〜」とは言われたりするけど、まあそういう人もいるだろうと思っているし、そこにショックは受けたりしないので、人間関係に支障はきたしていない。

    課長たちが週末に釣りやゴルフを楽しんでいる一方で自分はまったくインドアで過ごしているため、私は釣りやゴルフの話題は全然ついていけない。それと同じで、課長たちが推しの話題についていけないのも当たり前なんだと思う。Twitterとか全然やってなさそうだし、ネットを見て推しの情報を得る習慣がなければ、推しの沼にハマることもまあ無いだろう。

    雑談の中で、「そもそも“推し”ってなに?」と尋ねられたこともある。“好き”と“推し”はどう違うのかと。これは人によって使い分けや意味合いが異なってくると思うので、ここからは完全に個人の意見として見ていただきたい。

 

    自分の中ではこの2つは完全に別モノである。“好きな(芸能)人”は文字通りだが、“推し”は、その対象から学びたい人を指す。学ぶ事柄も推しによって違うが、考え方や文体、振る舞い方などの日々を生きる上で大切にしたいことはもちろん、趣味でやっている音楽についても、歌い方やフレーズの作り方、音程の取り方などまで自分の音楽に吸収させようとしている。

 

    人から何かを教わるのはなかなか簡単なことではないけれど、自分が良いと思ったことを良いと思う形でアウトプットできるよう、推しに私淑していくことは続けていこうと思う。なぜその行動を取ったのか、ひとつひとつの言動に意図を持って選択できるようにしたい。

    選択するということは、選択肢を持つということである。思慮が不十分だと、行動の選択肢が狭まってしまう。

    理不尽なことに面したとき、怒りにまかせてキレ散らかすことは簡単だが、それ以外の対処法だってある。例えばここで自分がキレたら今後自分に対してどういう目で見られるか、それが自分にどういう影響を及ぼすか、それが良いことか悪いことか判断し、その選択肢を取る意味がなければ他の手段を取れば良い。

    そういう思考を経ていろんな選択肢を持ち、意図を持って選択をした上での行動はたしかにエネルギーを持って人に伝わる。言葉には出さなくとも、こういう意図があるからこう動いてるんだなというのは感じることができる。しかし、これは相当にアンテナを張っていないと感知するのが難しいところでもある。

    他人への無関心ゆえに人の意図や行動を無駄にしてしまわないよう、常に人が何を考えているのか、自分にどうしてほしいのか、自分がどう動くことが相手にとって最適解なのかを考え続けることが必要に思う。

 

    「選択できる人になる、そのために人をよく見る」、これをここしばらくの自分の行動の指針としたい。そういう意味でも推し活は自分の人生に不可欠だ。