数字

    こだわり、わがまま。表裏一体。

 

    「数字」にこだわりや特別な意味を持っているグループというのは少なくないと思う。

 

    嵐なら、5×5に始まり5×20まで5年ごとにツアーやアルバムや曲のタイトルにもなった『5×○○』の5。

 

    嵐は「5人じゃないと嵐じゃない」という強い想いから、グループとしての活動休止という選択をとったけれど、そうはならず、メンバーの卒業や芸能界引退により、守ってきた数字が揃うことが永遠になくなってしまうことなんてきっと珍しいことではない。

 

    去年の自粛期間に好きになった=LOVE

    最初期から「12人」という数字をとても大事にしていたのを、1年足らずしか見ていないけれど、それでも12という数字へのこだわりは存分に感じていた。

    コロナ禍でのツアー・武道館公演も無事に完走して、いよいよこれから大躍進というタイミングでのグループ初のメンバー卒業発表。

    好きなグループに変化が起こると、特にメンバーに関することにはかなり敏感に反応してしまうのだなと改めて思った。

    携帯の液晶に映る“卒業発表”の記事を目にしたときのあの一瞬で全身に広がる嫌な痺れや変な汗は2年前にも経験したが、できればもう体験したくない感覚だ。

 

    幸いなことに12人が揃うステージをこの目で見れたことを嬉しく思うと同時に、もう12人が揃うことがなくなる日も近いことにどうしようもない悲しみを覚える。

    とてもショックで、前向きに捉えられるようになる時なんて来ないのかもしれないとさえ思うけれど、発表されたコメントを読む限り、卒業自体はメンバーの未来につながるように書かれてあったし、その部分についてはなんとなくスッと受け入れられている気がしている。

 

    これからもがんばってね、のん乃。

 

 

    数字を大切にするあまり、いつのまにかその数字が(数字に限らず)“そうでなくてはいけない”という「呪い」になってしまわないか。これはメンバーだけではなく、応援する側の姿勢としても念頭に置かなければならない。

    こだわりをもつのが良くないというわけでも、守り続けることが頑固でダメだというわけでもなくて、その選択が人の気持ちが優先された結果であること、その選択が良かったと思えるような行動を取れることが“正解”だと思う。選択の成否はいつだって結果論でしかない。

 

    こだわりが持つ、良い面とそれが孕んでいる悪い方向に作用し得る面、表裏一体な二面性は、ふとした時に人間に襲いかかってくる。

    一次的な反応がネガティブであっても構わない。それを受けてどう事態を乗り越えていくかという二次的な反応にこそ人間味が出てくるのだろう。

 

    今日は悲しい気持ちと共に眠ります。

20代も半ば

    「これにハマってます」って自信を持って言えるものは、少ない方なのかどうなのか。

    ハマった順に書くと、

    ・コナン(1998年くらい?幼稚園年長のころ?)

    ・嵐(2008年7月、中学2年生)

    ・上白石姉妹(2018年11月ごろ、大学院2回生)

    ・=LOVE(2020年4月ごろ、社会人2年目)

    4つしかありませんでした。少ないな。そこそこに好きなものは他にもあるけど、人に語れるくらいにハマったと自覚があるのはこれくらいだと思う。だいたい10年に1回くらい新しい沼にハマるペースなのかな。

    自分はそんなに長生きするようなタイプじゃないと勝手に思ってるから、あと3つか4つくらい何かしらの沼にハマるんだろうかな。歳を重ねても好きなものは増えるんだろうか。それとも、新しいものは受け入れなくなるようになっていくんだろうか。

    何かを好きになったり楽しんだりする感覚はできるだけ長く持っていたい。そういう感情が無くなることが所謂“歳を取る(≠歳を重ねる)”ことだと思うし、そうはなりたくない。

    消費活動に打ち込むことには自信があるけど、生産・創作にはほぼ興味が向かないことにここ最近でようやく気づいた。あまり現代の日本社会を生きていく上で有利な性質ではないと思うけど、それこそあと10年20年経てば考えも変わるのかもしれない。その時に馬力を持って動けるよう、感覚だけは歳を取らず、フレッシュな状態でいたい。

 

    余談だが、「○○したい」という欲は誰しもが持つものだと思うけど、欲を言葉にするという行為は、自分がその欲を実現する手立てを持っていないことの裏返しだと思っている(七夕の短冊とか神社の絵馬とかもそういう風に見える)。別にそれが悪いことだとは思わないけど、欲を即行動に移せる人はエネルギーに溢れていて素晴らしい。そういう部分が自分にはまだまだ足りない。

“推し”とは

    最近職場で雑談していて、自分の推しのことを話すことがあるんだけど、女優やアイドルのファンであることに驚かれることがある。課長連中からすると、芸能人の追っかけに熱を注いでいるのはどうも変に映るんだろう。

    一応フォローしておくと、推しを持つこと自体に否定的な感じではなさそうである。自分の推しについて「俺は好きじゃないなぁ〜」とは言われたりするけど、まあそういう人もいるだろうと思っているし、そこにショックは受けたりしないので、人間関係に支障はきたしていない。

    課長たちが週末に釣りやゴルフを楽しんでいる一方で自分はまったくインドアで過ごしているため、私は釣りやゴルフの話題は全然ついていけない。それと同じで、課長たちが推しの話題についていけないのも当たり前なんだと思う。Twitterとか全然やってなさそうだし、ネットを見て推しの情報を得る習慣がなければ、推しの沼にハマることもまあ無いだろう。

    雑談の中で、「そもそも“推し”ってなに?」と尋ねられたこともある。“好き”と“推し”はどう違うのかと。これは人によって使い分けや意味合いが異なってくると思うので、ここからは完全に個人の意見として見ていただきたい。

 

    自分の中ではこの2つは完全に別モノである。“好きな(芸能)人”は文字通りだが、“推し”は、その対象から学びたい人を指す。学ぶ事柄も推しによって違うが、考え方や文体、振る舞い方などの日々を生きる上で大切にしたいことはもちろん、趣味でやっている音楽についても、歌い方やフレーズの作り方、音程の取り方などまで自分の音楽に吸収させようとしている。

 

    人から何かを教わるのはなかなか簡単なことではないけれど、自分が良いと思ったことを良いと思う形でアウトプットできるよう、推しに私淑していくことは続けていこうと思う。なぜその行動を取ったのか、ひとつひとつの言動に意図を持って選択できるようにしたい。

    選択するということは、選択肢を持つということである。思慮が不十分だと、行動の選択肢が狭まってしまう。

    理不尽なことに面したとき、怒りにまかせてキレ散らかすことは簡単だが、それ以外の対処法だってある。例えばここで自分がキレたら今後自分に対してどういう目で見られるか、それが自分にどういう影響を及ぼすか、それが良いことか悪いことか判断し、その選択肢を取る意味がなければ他の手段を取れば良い。

    そういう思考を経ていろんな選択肢を持ち、意図を持って選択をした上での行動はたしかにエネルギーを持って人に伝わる。言葉には出さなくとも、こういう意図があるからこう動いてるんだなというのは感じることができる。しかし、これは相当にアンテナを張っていないと感知するのが難しいところでもある。

    他人への無関心ゆえに人の意図や行動を無駄にしてしまわないよう、常に人が何を考えているのか、自分にどうしてほしいのか、自分がどう動くことが相手にとって最適解なのかを考え続けることが必要に思う。

 

    「選択できる人になる、そのために人をよく見る」、これをここしばらくの自分の行動の指針としたい。そういう意味でも推し活は自分の人生に不可欠だ。

良さ、難しいもの

好きを語るのと良さを語るのは似ているようで難易度がぜんぜん違う。

良さはタイミングや文脈に依存する。

複数の要素が絡み合うことで良さが感じられると思っているので、一言でまるっと纏めるように表現するのは少し表面的すぎやしないかと感じてしまう。

 

文脈に依らない純粋な良さというものは存在するか。そもそも良さとは人間の主観である。何物からも切り離されたものには良さという概念は付加されていないし、評価を与えることは他者との関わりを意味する。

極端な考えかもしれないが、そういう意味で純粋な良さというのは存在し得ないという論を持っている。

 

(少し話は変わるが、「客観的な評価を」と求められることがよくあるように思うが、客観的な評価なども存在しないと考えている。評価とは全て主観的である。いわゆる客観的な評価とは、全ての人が同じ結論に達するという主観的評価の特異な例のことを指す。)

 

良さの話に戻る。だから、文脈を共有できていない人に作品などの評価を求められるとすごく困ってしまう。(最近何回か困った経験があったのでこれを書くに至った)もっと簡単に良さが伝えられるようになりたい。そういえば、前にも布教は苦手だ、みたいな内容のブログを書いたことがあることを思い出した。

 

克服する方法はまだ自分の中でまだ固まってるわけではないけれど、もっと丁寧に物事を見るしかないのかな。

思考メモ

○声や文字にした途端に良さが損なわれ(るように感じられ)てしまう思想があると思っているけど、これは自分に文章力が足りない言い訳を自分の外に都合よく作ってるだけな気もする。

○自分があと少しで届きそうだと思ってる人こそ、自分からほど遠いところにいるのではないかな。

○やりたいやりたいと言って結局できてないことが結構ある。自分にとってそれらの優先度が低いだけだったということだけれど、やる気をできるだけ長く保つ努力くらいはしないと。

○良い悪いの評価を急ぎすぎていないか。評価を下さなくてもいいという訳ではなく、目の前の事象に本当に自分が評価を下せるのか判断すべきだと思う。これができる人が多くないと思う。

○他人に新たなアンテナを与えるにはどういうきっかけが必要か。結果論だからどうしようもないところがあると今まで考えてたけど、そうなのかな。

○主張と調和のバランス。「空気を読む」という技術は空気を読もうとしてるだけでは身につかない。

 

 

特に何があったというわけではないです。

こんなことを連休中に考えていた、というだけのメモです。

わくわくピアノ練習帖

    社会人になってからやりたいことのひとつに、ピアノを再開する、ということを掲げていたけれど、1年くらいそのきっかけが無かった。(サボってただけ)

    3月末、誰のツイートか忘れたけど、TLで『みんなのうた』のNHKテキストに『夜明けをくちずさめたら』のピアノ伴奏譜が載ってるという情報を見た。

 

    今しかない。そう思った。

 

    推しの力に後押しされNHKテキストを買い、十数年ぶりにピアノに譜面を置いて鍵盤を叩いてから2週間くらい経った。

 

    毎日は弾けてないが、少しずつ弾ける範囲が広がってきた。今のところサビの手前までは滞りなく弾けるようになってきたが、サビ以降がなかなかにむずかしい。跳躍が多くて、部分部分では弾けるけど、通しで弾くとめちゃくちゃつっかえる。

 

    一応全部音は読んだので、一音一音丁寧にさらいながら通しで弾けるように練習していこう。4月中にある程度形にできたらいいな。音に向き合ってる間は、他のことを全部忘れて没頭できるのでとても良い。

 

    ピアノだけじゃなくて、本を読む機会も少し増えた。最近は、自分の世界を広げるきっかけはいつも推しにもらってる気がする。もっと自分で色んなことに興味を持てるようになりたいな。

20200403

ちょっと下書きで放出するにも量が多くなってしまいそうなので、ここに書くことにした。(下書きの使い方間違ってますよ)

 


私も事実を自分の都合の良いように解釈するのは得意だが、「悪口や批判、著作権や肖像権の侵害等モラルに欠けた言動が増えるのは有名になった証拠」という類の考え方(誰かがこういうことを言ってたことを示唆するものではない)にある、ポジティブな事実に託けて、副次的な事象としてネガティブなことが起こることを認め、それが誰の責任でもないという捉え方には少し違和感がある。


昨晩の件、おいかわさんはフォロワー(≒ファン)の皆さんに配慮をこめられた文章で、アカウント削除の旨を表明されたけれど、優しいお人柄や、楽しいSNSの場を少しでも共有できたというポジティブな事実に胡座をかいて、本人のやりたいようにアカウント運用ができなくなったことは有名になった故の当然の帰結、というように解釈するのは私にはちょっと難しい。(気持ちはよくわかります、わかるのだけれど。フォロワーがガンガン増えていくのなんか自分にはどうしようもできないし。)

良いことがたくさんあったから辛いことには目をつむってあるがままを受け入れるというのは、確かに愛してくれるけれどDV癖のある彼氏に悩まされている彼女みたいな、不健全な思考になりそうですごく怖い。その沼みたいな考え方にハマるのを断ち切ろうと思えるおいかわさんはやっぱりすごいと思う。とてもエネルギーがいることだと思うし自分にはきっとできない。


誰のどういう姿勢が悪かったと言うことはできないけれど、それは誰にも責任が無いのとは違うと思う。むしろ、自分の付き合い方に責任があったのではと想像をはたらかせ、こういう部分がいけなかったんじゃないかと振り返るべきなのかなとも思う。


“マネージャーさんとファン”というレベルの付き合い、“人と人”というレベルの付き合い。この2つをどう折り合いをつけるのが良かったんだろう。

自分も含めて、“人と人”レベルよりも“マネージャーさんとファン”レベルで考えていた人が多く、心のどこかに「芸能人と気軽に繋がれるコンテンツのひとつ」という認識があったんだと思う。どんなときでもそうだけど、特に仕事でない場ですら“人と人”レベルで見てくれる人が少なければ、負担になってしまうのは当然だろう。

好きな人にはその人らしく楽しんでほしい。どうやってその人がSNSを楽しんでるかをよく考えて、そのカタチに合わせて接する(たとえば、コメントをあえて残さないのも愛のカタチなんだと思う、自分はめちゃくちゃリプしてた身なので猛省)、というようにSNSの場がより良い場になることをコンテンツを享受する側が心がけ、思いが決して一方通行にならないように自制心を以って、“人と人”として付き合おうとする姿勢が自分に(みんなに)もっとあれば、結果は違ったのかな。人を大切にするというのは自分には本当に難しくて、結果が出てからいつも後悔する。

 

なんだかんだ言ってるけど、正直遅かれ早かれみたいな感じもするし、結果論をゴチャゴチャ言うのも好きじゃない。けど、大好きで自分にとって大きな位置を占めていた繋がりがひとつ消えてしまうというのは、やっぱり悲しい。

 

悲しいことにはちゃんと向き合わないといけないし、楽しかった良い思い出も色褪せないようにしたいので、この週末はおいかわさんにお手紙を書いて気持ちを伝えるようにしようと思う。事務所に初めて送るお手紙が芸能人宛てじゃなくてマネージャーさん宛てなのどうなんだろう。