20200403

ちょっと下書きで放出するにも量が多くなってしまいそうなので、ここに書くことにした。(下書きの使い方間違ってますよ)

 


私も事実を自分の都合の良いように解釈するのは得意だが、「悪口や批判、著作権や肖像権の侵害等モラルに欠けた言動が増えるのは有名になった証拠」という類の考え方(誰かがこういうことを言ってたことを示唆するものではない)にある、ポジティブな事実に託けて、副次的な事象としてネガティブなことが起こることを認め、それが誰の責任でもないという捉え方には少し違和感がある。


昨晩の件、おいかわさんはフォロワー(≒ファン)の皆さんに配慮をこめられた文章で、アカウント削除の旨を表明されたけれど、優しいお人柄や、楽しいSNSの場を少しでも共有できたというポジティブな事実に胡座をかいて、本人のやりたいようにアカウント運用ができなくなったことは有名になった故の当然の帰結、というように解釈するのは私にはちょっと難しい。(気持ちはよくわかります、わかるのだけれど。フォロワーがガンガン増えていくのなんか自分にはどうしようもできないし。)

良いことがたくさんあったから辛いことには目をつむってあるがままを受け入れるというのは、確かに愛してくれるけれどDV癖のある彼氏に悩まされている彼女みたいな、不健全な思考になりそうですごく怖い。その沼みたいな考え方にハマるのを断ち切ろうと思えるおいかわさんはやっぱりすごいと思う。とてもエネルギーがいることだと思うし自分にはきっとできない。


誰のどういう姿勢が悪かったと言うことはできないけれど、それは誰にも責任が無いのとは違うと思う。むしろ、自分の付き合い方に責任があったのではと想像をはたらかせ、こういう部分がいけなかったんじゃないかと振り返るべきなのかなとも思う。


“マネージャーさんとファン”というレベルの付き合い、“人と人”というレベルの付き合い。この2つをどう折り合いをつけるのが良かったんだろう。

自分も含めて、“人と人”レベルよりも“マネージャーさんとファン”レベルで考えていた人が多く、心のどこかに「芸能人と気軽に繋がれるコンテンツのひとつ」という認識があったんだと思う。どんなときでもそうだけど、特に仕事でない場ですら“人と人”レベルで見てくれる人が少なければ、負担になってしまうのは当然だろう。

好きな人にはその人らしく楽しんでほしい。どうやってその人がSNSを楽しんでるかをよく考えて、そのカタチに合わせて接する(たとえば、コメントをあえて残さないのも愛のカタチなんだと思う、自分はめちゃくちゃリプしてた身なので猛省)、というようにSNSの場がより良い場になることをコンテンツを享受する側が心がけ、思いが決して一方通行にならないように自制心を以って、“人と人”として付き合おうとする姿勢が自分に(みんなに)もっとあれば、結果は違ったのかな。人を大切にするというのは自分には本当に難しくて、結果が出てからいつも後悔する。

 

なんだかんだ言ってるけど、正直遅かれ早かれみたいな感じもするし、結果論をゴチャゴチャ言うのも好きじゃない。けど、大好きで自分にとって大きな位置を占めていた繋がりがひとつ消えてしまうというのは、やっぱり悲しい。

 

悲しいことにはちゃんと向き合わないといけないし、楽しかった良い思い出も色褪せないようにしたいので、この週末はおいかわさんにお手紙を書いて気持ちを伝えるようにしようと思う。事務所に初めて送るお手紙が芸能人宛てじゃなくてマネージャーさん宛てなのどうなんだろう。